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年齢は関係ないと言うけれど

夫にいつも言われること。「あんたは人の年齢をいつも気にしすぎる」

日本では敬語と尊敬語の使い分けの間違いや言葉そのものを間違えてとらえることや使い方など「現代の若者は敬語や尊敬語がなっとらん」という論議がよくあるが、韓国では敬語を子どもの頃からきちんと教わる。若者でも敬語を使い、他人でも身内でも年が一つでも上であれば敬語を使う。韓国では日本以上に上下関係が厳格だからだ。それは儒教思想に基づいているのだと、大人になってから知った。

私は在日韓国人2世の両親に育てられ、また親戚付き合いなどを通じて、日本に住みながらも儒教思想に触れて育った。父方の在日韓国人1世の祖母も同居していたので、こういう言い方は合ってるかわからんが家庭はさながら「小韓国」であった。

年上なら敬語を使い慕わねばならないし、年下なら慕われる身。もし間違いがあれば人間関係上失礼な行為である。コミュニケーションする相手の年齢を知ることは「無礼者」かそうでないかという重要な意味をなすのだ。


日本では、70年代以降のカウンター・カルチャーの影響がじわじわ「年齢で先入観を持たず、その人となりを会話から引き出してコミュニケーションしようぜ」「年齢を聞くことは男性優位社会や封建社会の悪しき習慣」という「欧米式で行こう」的な思想を広げている。年齢を聞くのなんて野暮でしょ、というわけである。


大げさに言うと、年齢を確認することは韓国人の日常的なたわいもない営みであり、アイデンティティでもあるのだ。私は日本語を使い日本の教育を受けてきたので基本は日本人なのだが、年齢を知りたいと思う時は韓国人なんだなぁとじんわり気がつくのだ。まぁ、私も日本の敬語や尊敬語や謙譲語の違いはあんまりよくわかってないが。

まぁ、そういうことだから年齢気にするのは多めにみてくれや>夫氏

人は喋らないと狂う

私は自営業で、自宅で仕事をしている。
お客様をお迎えすることもあるが、孤独に事務作業をすることも多い。
家族以外と話さない日も少なくはない。一人気ままに過ごせることはストレスレスで快適ではあるが、「身内以外の人と話さない」ことの弊害もあるなと、最近つくづく思う。

弊害その1
言葉のアウトプットが乏しいからか、頭に浮かべた「言いたいこと」がすらすら出て来ない。家族と話す時はそうでもないので、身内以外と話す時は意外に緊張するからなのかもしれない。

弊害その2

人と話せることが嬉しくてついつい喋りすぎてしまう。これは話し相手によっては、相当ウザく感じるであろう。

弊害その3
大人は他者を気遣うという社会的マナーを持っている。不肖私も目一杯謙遜して言ってもそれなりの気遣いは持ち合わせていると自負する。この「気遣い」が言葉と調和をもたせながら人と接する、という日々の訓練がないためか、なんかぎくしゃくしてしまう。

こういう弊害があるため、対人関係で余計な心配をしてしまうのだから、これは対策を考えなくてはならない。
今日は、子どもの学校のサークルでついでしゃばったことをしてしまった。気のせいかもしれないが大なり小なりやっちまったような感はある。
ここで私はハタと気がついた。主婦がサークルやPTAや集いにせっせと通うことの理由は「お家にお籠り」することで言語や非言語コミュニケーションの鍛錬不足になるからなのではないかと。人は言葉で自己を表現する。自己を確立する。その営みが奪われたら、人は狂うのではないか、と。

男女で脳の構造の違いがあることはご存知だろうか。右脳と左脳をつなぎ、情報を行き来する「橋」の役割をする脳梁が男性より女性の方が短く、大きく、丸いからという脳の構造の男女差のあらわれで、女性は男性よりマルチタスク能力に長けているからだといえよう。

女性は1日2万語話さないとストレスがたまる、という研究結果が出ているそうだ。アウトプットもインプットも一度にたくさん行えるからこそ、その本領を発揮しないと不完全燃焼となるのだろうか。関係は十分ありそうだ。そして、ストレスがたまるということは、言い換えるとたくさんおしゃべりすればストレス発散ができるということだから、やはりたくさんしゃべったほうが精神的には健康なのであろう。

ということで、週1でもいいからパートに出ようかな・・・と真剣に考えた花金の夕方なのであった。

 

グループサウンズとちびくろさんぼ

渋谷陽一のトークはやっぱり面白い。ロッキングオンを読んで育ったおかげでそう思うのだろうか。

1978年11月23日から1987年3月20日までNHK-FMで放送された音楽番組「サウンドストリート」がyoutubeでたくさんアップされているのを発見し、とりあえずグループサウンズ特集を聴いてみた。私の結構好きな鈴木ヒロミツがゲストだったからだ。
グループサウンズ全盛期の裏話や秘話を面白おかしく話すものだから、聴きながらケタケタ笑ってしまった。渋谷陽一も毒味あるトークで笑わせ、私の知っている彼の声と比べ寸分も変わらず、30年以上経っているのに色あせない。鈴木ヒロミツは2007年に癌で他界しているのに、まだこの世で生活しているかのような前向きなマインドが声に溢れる。

当時ヒットした様々な曲が流れる。ザ・ゴールデン・カップスザ・ダイナマイツは知っていたのだが、なぜか今まで一度も耳にしたことのないジャックスの「堕天使ロック」が流れた時、心に衝撃が走る。「な、なんじゃこれは」轟音とともに歌謡曲っぽいがシャウトしまくりの歌声、超ネガティブな歌詞。かつてはPILやデペッシュモードなどネガで暗いロックを聴いてきた私だが、今はもう人の親。人生を斜めから見る余裕などない。ネガ全開のジャックスをまっすぐに受け止められないが「す、すきだな」というやや遠慮がちな好意を抱いたのだ。

調べによると活動中に作ったフルアルバムは「ジャックスの世界」ただ一枚だけで、あとのアルバムは制作途中で解散してしまったためライブ音源などの寄せ集めらしい。さっそくレコ屋の500円コーナーで「ジャックスの世界」を手に入れ歌詞カードを見つつ聴き入った。

「からっぽの世界」の出だし「ぼくおしになっちゃった」に目が止まった。
「ミスプリ?星の間違い?」
検索すると「おし」は「唖」で、古くから発話障害を指す言葉でもあるらしい。私は差別用語と意識した途端、「こんな曲発表しちゃっていいのかなぁ」という気持ちになってしまった。だが、「驚いてあげる声」などそれ以外の意味もちゃんとあるのだ。

私が差別用語を強く意識したエピソードがある。子どもの頃に家庭で頻出の「ちんば」という言葉を、友人に「それは差別用語だよ」と指摘されたのだ。ちんばは、洗濯物をたたむ時に片方ずつ違う靴下を合わせてしまった時に「ちんばだよ」といった具合に使われていた。ちんばとは、障害や怪我などで片方の足がスムーズに動かず、うまく歩けないさま、またはそういった人を罵る差別用語である、と字引にはある。

また、対になっているセット物の大きさや形、色などが揃っていないさま、またはそういった物をさすという記載もあるから、かつては日常会話で使用されていたのだろう。ちんばだけではない、他にも様々な差別用語が存在する。

では、いつから差別用語は成立したのか?明治時代に政府が示した教育方針「教育勅語(きょういくちょくご)」で教育による国民統一をはかった時から、すこしずつその兆しは見えていたのかもしれない。土地毎に違う言葉を使っていたものが標準語として統一された時から、言葉はすこしずつ失われていき、言葉の意味そのものも変わっていったことは想像に難くない。

「調べてみると、そもそも「放送禁止歌」という言葉などなかったのである」というのは、千夜千冊「放送禁止歌」での松岡正剛の言葉。差別用語だけではなく、放送禁止歌放送禁止用語、公にしてはいけない「禁」は単なるガイドラインで法律ではないのだ。

絵本「ちびくろさんぼ」がアパルトヘイト反対運動の影響でこの世から姿を消したのは、発禁ではなく出版社の自主回収だった話を思い出した。「出版してこの世に存在することを禁止」されたわけではなく、社会からはみ出すことを恐れた出版社の「自主規制」なのだ。ちなみに、「ちびくろさんぼ」は現在違う出版社が出版権を得てこの世に戻り、再び読まれ続けている。

私たちは、社会から「はみ出す」ことの怖さと普段から戦っているのかもしれない。はみ出る勇気を持つこと、言葉の多様さと向き合うこと、物事を多面的に見ることは死ぬまで忘れたくないぞ。